ふたたびブログ

いろんなものを書きます

結局わたしのような半端者は死にたがり続けるのにも飽きてしまうのだった。

 年末からしばらくタイトルを「もしもピアノが弾けたなら」のもじりシリーズで続けていたのだがこれも飽きてきたので打ち切りである。

 おそらくまた性懲りもなく死にたい気持ちになる日はあり、食事を取らなくなり風呂に入らなくなり顔を洗わなくなり布団を出なくなって溶けて消えてしまいたくなるだろうなとは思う。
 が、今日のところはそれにも飽きたらしく、お気に入りのコーヒー豆を買ってきて、ドリップし、新しく買ったカップを使って飲んでいる。いい休日である。だからといって私の「あ~死にたい~」が構われたがりの病んでるアピだと思われるのは心外だが、まあ別にそう思ってもらっても私は構わない。2週間前の自分と今日の自分が別人というだけである。一貫性が無い。

 昨日の私と今日の私はいつも別の生き物だなと感じる。
 昨日確かに抱いた感情が今日はどこにも見当たらないということがある。自分の中のどこにも見当たらない。己が体を、かたちを気に入っている左手の小指の爪から、エアコンの風で時折ぱやぱやとするアホ毛の先、不定期に荒ぶる腹、さいきん霜焼けになってしまった足のつま先まで隈なく探して、忽然と消えてしまったと思うことがある。
 厳密には、存在を忘れてしまったものは探そうという気持ちを抱くことすら叶わないので、「そういえばあったな」と思って初めて探すことになる。「そういえばそんなのあった」の契機が、自分の書き記した何かである。

 どうして(口頭で話すことと比べて)文章で書き記すほうへ傾倒したのかといったら、自分の思ったことを覚えていられないということが、背景の一つにはあるのだろう。夜中に書いたものを翌朝に読んでそれこそ死にたくなる日もある。それでも、自分がどれほど死にたくて、どうして死にたくて、あるいはどれほど満たされて、いかに浮足立っていて、はたまたいきり立って、目も当てられないほど青臭くて仕方がなくて、といったことを思い出して「ああ、このときの私のことを私は嫌いではなかったな」と思うとき、今の私がようやくどうにかしてあの日の私の背中をさすってやすことができると思うのだ。
 さて、こんな記事も明日には読み返せなくなっているかもしれない。

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 まったく話は変わるが、去年から楽しく短歌をよむのに使わせていただいているアプリ「うたよみん」がサービス終了するらしい。ソシャゲはあまりやらず、愛読している漫画は10年以上続いているので、サ終なるものに不慣れである。慣れていたところでさびしさは変わらなかろう。さびしいものだ。

 

www.utayom.in

 この2~3カ月はうたよみんに生かされていたと思うし、世界から消えてしまいたい日にしかよめなかったものがあると思う。ありがとううたよみん。もう少しだけ縋りついていたい。