ふたたびブログ

いろんなものを書きます

近ごろ短歌をよんでいます

 「詠んでいます」と書くのが気はずかしくて、思わず平仮名にしてしまいましたが、よんでみています。概ね毎日~たまに休む日もあるけれど~というペースです。

 『うたよみん』というアプリで、入力して、短冊の色やフォントを指定して、ツイッターにも連携する。はいおわり。これで一つの小さなドラマが、あるいは独白が、はたまたため息が、世の中に生まれました。という感じがします。

 

 

 お気に入りのものをいくつか。

www.utayom.in

 

 これはスプラトゥーン短歌。

 

 最近よんだもの。

www.utayom.in

 

 おうたをきちんと学んだことがないもので見よう見真似ですが、とても楽しいです。

 学んだことがない、で言ったらブログを書くことも、小説を書くことも、学んだことがあると言えるのかどうかは分かりません。分からないなりにも、今の仕事で(春から広告業の端のほうに籍をもらっています)(やっとたどり着いたライティングの仕事ですが、転職のたびに年収が下がっているのは両親にはヒミツです)なんとなくそれなりに、一つの案件を仕上げるまでの早さにはつながっているようなので、無駄ではなかったのだなという気がしています。

 文章、とりわけ物語や詩に類するもののいいところは、受け取った人が想像を広げられるところで、書き手が意図した以上の世界の広がりが、そこにあることだと思います。

 そして文章、とりわけ物語や詩に類するものの困ったところは、これもまた、同じところにあるのかもしれないなと思います。

 それが果たして、喜ばしいことなのか、はたまた私の未熟のゆえに思ったことが伝達できていないだけなのか、境界はどこにあるのだろうと思います。一方で私も受け取る側の立場なら、好き勝手に想像を広げていて、それが書き手の意図したとおりなのかはどこまでも分かりません。脳を掻っ捌いてみたとて、思考が一致しているかどうかなんて照合のしようがないのですから。感情、感慨ならば尚の事です。

 

 とはいえ仕事にはときに、図面を用いて何かを為したり、紹介したり、照会したり、しなくてはならない場面があります。ビジネス上の図面に関してだけ言えば、おそらく描かれたものが相手に伝わるべきことのすべてで、情報はそれ以上の広がりを持たないのでしょう。(情報を得たのちに、そこから広がるものはあると思いますが。)

 よく、手書きの文字があまりうまくないと自認している方が、「下手でもいいから丁寧に書けって言われるけど、これでも丁寧に書いているんだよ」と言うことがあると思います。いえ私も決して文字が上手いわけではないのですが。しかし私にとっては、絵筆でそれが顕著なのです。下手でもいいから伝わるように描いてくれと言われても、伝わるように描けたためしがないのです。おそらく、描けないというのは見ていないということで、どれだけ映像を観ても漫画を読んでも、私は絵を追っていないのかもしれません。常に言葉ばかりを、おそらくは、追いかけているのでしょう。どうしてこのように育ったのかは、よく分かりませんが。

 

 少なくとも、こうして文字を打ち込んでいる間は、うまくいかない仕事が控えていたとしても心が落ち着きます。プライベートで使用しているPCのキーボードは、キーが浅くて、仕事用の端末とは打ち心地が少し違います。CttlとFnの位置が逆なことをのぞけば、どちらでのタイピングも、私にとっては広大すぎる言葉の海原の波打ち際ではしゃぐような感覚です。