ふたたびブログ

いろんなものを書きます

書くことを指してすきだというときの範囲

 少し前から広義の意味で「書く」ことを仕事とさせてもらっている。

 大袈裟に聴こえてほしくはないので補足すると、広い意味での広告業の端っこのほうに社員としての籍をいただいた、という話である。

 朝も昼も夜も書くことを考える生活を送っているのだが、どうも「書きたい」人間の中でも、どこからどこまでを書きたがるかに関して色々なスタンスがあるらしいと最近思うようになってきた。

 

 仕事(もっぱらデスクワーク)をするにあたっては、広告以外にも「書く」行為は発生する。これは広告業ではなくても一般的に発生するのと同じことだ。取引先へのメール、上司への連絡、手元に置いておく資料、社内用の簡易な予定表だとか、そういった文字情報の取扱いは常に付きまとう。

 私は、そのどれもこれもを基本的に苦に思わないようなのである。

 現在の職に就く前でも、ビジネスメールには失礼のない範囲で一定の自由を泳ぐ楽しさが、会社名義で発する文書には均整の取れた様式美があって、いずれもキーボードを叩く行為で作成されていく過程に私の心の平穏は保たれていた。

 ……というか、同じ「書くことがすき」「書くことをやりたい」人の中にも、ビジネスメールは苦痛だという人がいるらしい。いや、理屈は分かるが、正直すこしびっくりとしてしまった。

 私は兎角「書く」行為そのものに、言ってしまえばわりと身体的・肉体的な喜びを覚えているようだ。

 

 とはいえ「書く」行為はそれだけでは成立しなくて、かならず「何を書くか」がある程度付きまとってくる。いくら「書く」ことそれ自体が喜びなのだとしても、都合なにかしらの中身は必要である。歌うには便宜上の歌詞を付けないといけない、みたいな話かもしれない。

 では私は中身をどうでもよいと思っているのかといえば、一切そんなことはない。

 遡って考えればつまるところ、私が「書く」ことに傾倒しているのは、私にとっては、絵を描くよりも写真を撮るよりも口頭で話すよりも、自分の感じ取った世界(たとえば昨日の昼下がりに葉桜のまぶしく青々としていたこと)をホルマリン漬けで保存できる行為が「書く」ことだったためだ。

 だから「何を」の部分を考えることも、私にとっては(私だけではないと思うのだが)「書く」ために必要な諸々であって、なんなら「書く」行為の一環だといえる。

 

 広告にしたって、自分の内省を吐露する類のものではないから、顧客と、顧客がメッセージを伝えたい相手とを、よく調べて見聞きして質問して資料を揃えて、さて何を書こうと考えなくてはならない。らしい。まだ試用期間のひよっこなので聞きかじりの知識である。

 私にはお話(小説)を書きたい人間としての側面もあるが、お話だって、書くにはそれなりの「何を書くか」の下調べや資料収集やさまざまな材料が必要になる。「何を」書くか、どこにもないのに「書く」だけを行うわけにはいかない。無論そういう仕事の頼まれ方も世の中にはあるのかもしれないが。

 ところがこれも、書くことはすきだが調べ物は苦手であったりとか、別に不得手でも良いと思うのだが苦痛に感じたりとか、人によって得手と不得手がさまざまな現れ方をするようなのだ。ふとそんなことに気付いたら、なんだか実に興味深く、同僚たちをしげしげと(気付かれないように)眺めてしまった。

 

 何も調べず何も聴かずに内省だけで為せるものがどれくらいあるのだろう。

 あるいはその内省だって、外界との接触で生まれたものじゃあないのだろうか。

 とはいえ、自分以外の他者や理屈で綺麗に整理された世の中に居所を見出すのがむずかしいとき、地獄まで付き添ってくれるものとして「書く」ことや「読む」ことが存在するのも確かなのだけれど。

 

 はたまた、私は外界との接触で何かを知った気になっているだけで、書いている気になっているだけで、本当のところは、己の中のなにひとつとして見つめていないのではないかしら。

 

 そんなことを思いつつの五月の雨の夜。なんの気なしの手慰みにこんな記事を書いている。