ふたたびブログ

いろんなものを書きます

誰かのためのリソースが割けない

 「12月に毎日更新する」を「12月に31記事を投稿する」と読みかえることにしたので、これは12/3の分にあたる。

 

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 世に言う「マッチングアプリ」というものに登録をしてみた。一人で暮らすことのリスクに嫌気が差したからだ。顔写真はあとで登録することにして、てきとうなプロフィールを設定して、なるほどこういう世界なのかと眺めてみたところで限りなく知人に似た知人を見つけて辞めた。

 この気まずさを乗り越えて婚活、恋活を続けていらっしゃる方々は本当にすごいバイタリティだと感じる。ぜひしあわせな出会いと、しあわせな人生を掴んでほしい。

 少なくとも今の私は「これならやはり一人で暮らすことのリスクを取ろう」と思ったので辞めた。近ごろは飛び出してきた実家に戻ることを考えている。飛び出したのは地元(あるいは昔の職場)であって、実家の両親と喧嘩したわけではないので。

 

 私の、結婚に対する意欲と危機感は、同年代の平均値(そんなものが計測できるならだが、体感として)よりも随分希薄な部類らしいと見ている。

 

 一つには出産願望が非常に薄いので、そこから逆算して特段焦りを生じないことになるわけだが、それはそれとしても、他人と寄り添うことへのハードルの高さといったら、である。一人暮らしが長いほど「自分ルール」が増えていき、他人と暮らしがたいのはなんとなくご想像いただけると思うが、そういう物理的、金銭的、実務的なことをさておいても他人と一定以上の時間を共有するのは難しい。

 私は自分の価値観を他人に押し付けてしまう性質である。他人を勝手に理想化してしまう傾向もある。そのくせ勝手に失望して「この人は私の人生には邪魔だな」と思ってしまう。何にしてもそうである。勝手に惚れこみ、勝手にアプローチして、現実が分かると勝手に覚める。あーあ。恋人やパートナーと呼ばれる間柄に限った話ではない。この齢にしてなんとも幼稚な感覚に違いない。

 この幼稚さ、関係構築への稚拙さを前にして、「私は他人と暮らすのが向いていない」と判断し、どうにか一人で老いてゆけるようでありたいと思っている。幼稚さを棚に上げて「他人にケアしてもらおう!」とは思っていないので何かがギリギリ許されるようでありたい。他人とは暮らせないくせに社会、世間には許されたいらしい。

 

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 なんて話をすると、「それでも他人の助けを借りないと人は生きていけない」という基礎、根本について言及されるわけだが、「他人と暮らしていく人生を大いなる勇気で以て選択できた人たちにそんなことを言われましても」という気持ちにしかならず、ましてやそんなことを親切な友人に向かって吐き捨てることも叶わないので、ニコニコしたり、わざと溜め息をついてみたり、するほかない。

 あるいはあなたにとって、お互いに助け合う相手はもはや「他人」ではなくなったのでしょう、と感じる。よかったねえ。友人がそういう選択をできることはすきだ。よろこばしい。これは心底からめでたいなと感じる。

 「友人家族の幸せそうな姿を見るのがつらくてしかたがない」「ひがんでしまう」といった感覚、時折聞くけれども、私はあまり分からない。

 友人の幸せは友人自身が判定するものであって、その判定を端から眺めているだけの私が、辛さを覚えるのはお門違いである。とはいえ、時にひがんでしまう人が世の中にいるのも分かっているし、それを非難したいとまで思わない(幸せそうな友人に対する身体的・精神的な攻撃として向いてしまうなら話は別だ、非難されるべきである)。私はそうは思わないけれど、というだけ。不思議な話かもしれない。

 

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 おそらく私は「他人と考えをすり合わせる」「他人のためになることを考える」といった事象に、奇妙なまでの忌避感を抱いているのだと思う。

 まったくやっていないわけではない。社会生活を営む上で(これでも会社員として働いているのだ)、大なり小なり、意識したり無意識だったりしながら、行っているのは事実だと思うが、それをいざ「利他の精神」みたいな形で目の前に持ってこられたとき、胸中に湧き上がるのは忌避、嫌悪、恐怖に似た類のもの、かもしれない。

 

 他人の為に何かをすると、うまくいかなかったとき、行き場のない感情に苛まれる。

 「あの人のためと思って、この場のためのと思って、自分の考えとはちがうことをやったのに、うまくいかなかった」

 そのくせ、結局「やる」と判断したのは自分だから「あの人」や「この場」に対して責任を求められやしないし、責めてはいけない――私はそも《他人を責めてははいけない》と思っている、あるいは《他人を責めるような人間になってはいけない》と思っているのに。

 

 少しばかり逸れる話だけれど。小学校4年生くらいの理科の授業で、先生から出された質問へ「班ごとに答えを考えてみてください」という時間があった。

 もう2、3ページ先の教科書をチラ見して答えを知っていた私は、意気揚々と「Bが正解だと思う」と話した覚えがある。けれど班の中では「いやAでしょ」派が大多数を占めていて、結局、Aを班の回答としてクラスに発表した。無論、正解はBだった。

 私はどうしようもなく恥ずかしいような、悲しいような、やるせないような、消えてしまいたいような、過去に戻ってやり直したいような気持ちに襲われた。比較的新しい新校舎エリアの第二理科室、上下に可動式の二枚の黒板が並んでいて、下の黒板へ担任が何かを書きつけているのを見ながら、今すぐ保健室に駆け込みたい気持ちをじっとこらえていた。

 決して進級のかかったテストでもなく、新しい単元への導入オリエンテーションのような時間のことだ。間違えたってかまわなくて、ただ、各班で話し合ってみることが大事、みたいなことだったろう。

 それでも私は「自分が思っているのと違うこと」をやった結果として、それが間違っていて、それが「自分の間違い」になったことが許せなかった。やるせなかった。それなら無理に周りを説得しても「B」を答えとして発表したらよかったと思った。その結果が間違っていたら私のせいとして、謝ればいいだけの話だ。そこでの後悔はなんら具合の悪いものではない、あたりまえに受け止められる。責任の所在がよほど明確になる。

 それならいつまでも「私のやりたいこと」をやっていようと思った。私が「自分のためにしか生きたくない人生観」を作り上げていく過程、その最初期の一つの体験である。

 

 とりわけ私の幼少期を思い出すと、母はいつも「こんなに家族のためにやっているのに」と薄っすら苛ついて見えた。当時の父は激務で帰りが遅く、実家は遠く、私とまだ乳飲み子の弟を抱えては当然だが。楽しそうに子育てをやっていたという印象は弱い。子どもたちが学校へ通い始めたと思ったら今度は姑との同居に気を遣い、その苦悩たるや、容易に想像はできない。私は母を悪く言うつもりはない。

 「家族や子どものために時間を過ごすこと」を希求できない私の、根本には、この「子育てが大変そうだった母」のイメージが焼き付いているらしいと感じている。子育てに苦労なさらない親御さんなんていないと思うので、私がこうまで思い至るのは、やはり個人差だとは思うが。

 母にしても、私にしても、おそらく根本は世話焼きなのである。母などは妹(私のおば)に対しても随分甘かったという(おばの甘え上手もあろう)。私の場合は弟が私を頼る場面がなかったからか、時代的なこともあるのか、母ほどには世話焼き性分が育たなかったのかもしれない。

 

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 むかしから、世話を焼きたいと思うだけで上手に焼けた試しはない。

 大抵、生焼けか焦げてしまうかのどちらかである。

 自分が食あたりを起こしてしまうので、他人の悩みには首を突っ込まないことに決めた。「他人の悩みがこんなふうに解決したら、私の理想もこんなふうに叶えてもらえるのかも」なんて期待を抱いてしまう自分に辟易とした。そういう期待のギブアンドテイクで世のパートナーシップが成り立っているのだとしたら、いずれも奇跡だと思うし、奇跡なら私には起こらなかったところでなんら不思議ではないと感じる。そこらに転がっている代物ではない。むろん、他者との関係を構築するうえで腐心し、努力を重ねている人たちのことを度外視しているわけではないし、その努力のうえにこそ成り立っている奇跡だと感じる。

 すなわち、そこへ心を砕けない、食あたりを起こすくらいなら何も食べないことにした私に、奇跡など起きようはずもない。起きてしまっては困る。本当に降り注ぐべきところへ祝福は降りてくるべきだ。両親や友人が、私にパートナーや家族があったならと願ってくれたとして、私の幸福は私が判定するものだし、私が望むことはパートナーや家族を得ることではない。では私が希求することはなんなのだろう。

 

 一人きりで死んで構わない。死後三日以内には見つかりたい。それ以上は弟に悪いので。それには健康な心身が必要だが、一人の暮らしにはそれなりのリスクを伴う。だからといって他人との暮らしを望むにも、こんな理由で「他人と暮らしたい」なんて希望が、叶えられてよいはずはないだろう。

 現実主義みたいな顔をして、ロマンを欠片ばかり追い求めている。この幼稚な情緒と稚拙な暮らしが、いつか私を殺すのかもしれない。それならそれで、仕方のないことかと思っている。