ふたたびブログ

いろんなものを書きます

1マイルの指す長さは違うらしい

 2マイル目の世界にいる話をしようと思い、そういう「マイル」ではないとは判っているけれどそもそもマイルって何メートルなんだと検索してみたら、国と陸と海とで違うようだ。

マイル - Wikipedia

 ちなみに「マイルとは」でGoogle検索したところ最初に出てきたのは飛行機に乗ると貯まるほうのアレだった。そうではない。そうだけど。

 

 映画『ラストマイル』を観た。

 アンナチュラル、MUI404の2作品を知人に勧められて、そこからの流れで公開初日に映画館へ行くこととなった。すっかり夢中になっているので知人は喜んでくれている。「あなたのスイッチを押してしまったのね」と笑っている。そのとおりだ、時には人にスイッチを押してもらって初めて広がる世界がある、ありがとう。

 『ラストマイル』もまた1つのスイッチとして私の深いところをぐいと押してくれてしまったな、という感じがしている。

 約2時間の中での見事な伏線の回収、1つとして無駄な描写のない、すべてに意味がある美しくて目まぐるしくて情報の波に翻弄されるつくりに舌を巻きすぎて喉が詰まりそうになった。実際おそらく詰まった。2時間後に気の抜けたジンジャーエールを明るくなった劇場内で勢いよく啜った。

 前述のドラマ2作品に対してもそうだけれど(私がいまさら書き記すまでもないことだけれども)、根底に「いま、私たちが立脚している社会と地続きのテーマ」が強度を以て存在している。と同時に、ドラマチックな展開とどこかデフォルメされたキャラクターたちの魅力あふれるエンタメでもあり、リアルとの線をどこへ引くかの加減が絶妙。今あることから目を背けないし、背けさせなくて、だけど自然と引き込まれて、観終えた時には愕然とした。どうしてこんなものが生み出せるんだろうと心臓近くがヒリヒリとする。

 いままで意識していなかったものを意識するようになる、その最初の一手がなんらかの創作物である、みたいなことって、ある。と思う。その意味でラストマイルは急激に私の世界に食い込んで、わりと重要な臓器に近そうなあたりの肉を千切っていった。

 私はメイク落とし用のコットンを、通販サイトの定期便で購入している。けれど次の配送を待たずしてストックを切らしてしまった。こんなとき、だけど、ぽちりと押していいものか一瞬迷うようになる。そういう世界のズレって些細なようでいて、だけどだけど、そんなに簡単にこういう世界ってズラせないものだったりする。進学とか就職とかプロポーズとか不動産購入とか、そういうあからさまに大きな分岐点以上に、日常に溶け込んでいる些細な1000回とか2000回とかの選択こそ、容易に「意を決する」ことさえできないものであったりする。選んでいることも、選ばされていることも、認識しがたいから。それをズラせるイベントといったら、ずしんと腹の底に響くような、それこそ映画館の一番大きなスクリーンをぐわんぐわんと揺らすようなショックじゃないと、世界って変わらないのかもしれないという気さえする。

 それでいてこの映画がくれたものは今までの世界とのズレだけでもなくて、私もこんなものが生み出せたらいいのにと、そんな気持ちが湧き出でて心のうちに蓄えられる感じがする。2マイル目を終えて帰ってきて、個人的にも大きな変化や選択がたまたま存在するタイミングで、ぐらぐらになった私の中に今日この、むわっとした夏の名残りの空気を落ちてきた日が知らんぷりするような季節、豊かに残っているものといったら「あんなふうに何かができたらいい」「一生なにかをやりたがっていたい」という気持ちだった。じりじりとする。焦燥に駆られないことのほうに、不安を覚える。私はなにかをやりたがっていないなら、いったいなんのために生きて生まれて育ったのだろうと思ったりもする。なんて、そもそも生まれたことに意味なんかなくて構わないのも本当だと思うのだけれど。

 そんなこんなで仕事をするし、何かを書いたり読んだりする。

 取り留めのない話になってしまった。ここに取り留めのあることを書こうと思っていないから、それはそれでいいのだが、では私の取り留めがなくて不安ばかりの人生はどこへ封をして届けたらいいのだろう。爆発しないとは言いがたいいので、他人にゆだねるにはしのびない。

昔の自分が書いた昔の自分の文章がすきだ

 久方ぶりにブログを書く。

 特に中身のないことを、自分の中で落ち着けるために、つらつらと書く。

 何かを書くことは何らかの名前、何らかの形、何らかの分野で続けている。それが名前のない仕事であったり、別の名前の趣味であったりする。あちこちに分散しているのは、宣伝効率の観点で言ったら、だいぶ愚かなことかもしれないけれど、私は私自身の中に複数の側面があり、濃いと淡いとがゆらゆらしていることを、それなりに好いているので、これでよいことにしている。

 いつでも逃げ場が欲しいのだろうと言われたら、反論の余地はない。

 

 今日は天気がいい。

 昨年までは随分と身の回りが慌ただしかったのだが、近頃は慌ただしさのわりには腹が決まっているとでも言うのか、存外落ち着いた心持ちである。季節的なことはあるかもしれない。初夏のころに、民家の生け垣にびっしりと真っ白な躑躅が緑を覆い尽くしているのがすきだ。胸がすくような感じがする。私がしんだときには四角い石の代わりに白い躑躅を植えて、そのまま放っておいて、誰も墓参りに来なくていいようにしてほしい。遠い親戚の墓を掃除するのも、放置するのも、いずれにしても気の重くなることだろうから。

 さておき。

 

 ふと思い立ってむかしの自分が書いたブログを読み返してみた。なるほど、あの頃の私はよくこんなものを書いたものだなと感じる。

futatabinidoto.hatenablog.com

 このころは「誰か私の前を歩いて、私に私の生きるのに適した道を示してくれ」と思っていたのだろうが、近頃はそれもまあいいか、と思うようになったのだろう。きっかけとして語れるほどのことは残念ながら思い当たらず、おそらく、時間や年齢による変化であり解決であり、若干は妥協なのだ。

 こういう人生の迷い、めいたものに対して、時間と年齢以外の解決案を持たないことについては、自分自身に関してはそれでよくても自分より後に生まれた人たちに申し訳ないなと思うことがある。「いまを耐える」以外のアドバイスができずに申し訳ない、いや、声高にアドバイスをする方が大人としてはちょっと疑わしいところがあるけれど。

 しかし、と言うべきか、しかも、と言うべきか、このうえ耐えるべき「いま」というのが、私の頃に比べてちっともよくなっていない(ある面ではよくなっていても、ある面では悪化している)みたいなことは、わりと申し訳なく思う。思うだけで何もしていないのは、何も思わないよりも、非難されるべきことなのかもしれない。

 未だに今の子どもたちにこんな苦労をさせねばならないこと、はずかしいな、と思うことが最近は増えた。私は自分が子どもを産み育てたいと思わないし、人間がいつか滅んでもそれはそれで構わないと思っているから、のちの世に何かを残したいという感情はおそらく希薄なのだけれど、しかしそれはそれとして、別段積極的に滅ぼしたいわけではないから、現に私より少しのちの世に生まれた人たちに対しては、私が通った道よりも歩きやすいところを歩いてほしいなと思うのである。こういう感慨めいたもの、この年齢になって初めて沸き起こってくるのは、現代社会に生きる人間として未熟だと言われてしまえばまったくそのとおりなのだが。

 言い訳めいたことを書いている。ああ恥ずかしい。

 

futatabinidoto.hatenablog.com

 積読はちっともリセットできていない。

 しかし今年度に入ってからすでに4冊も積読を減らした。私にしてはいいペースである。あるものを読まずに、読んだものの続刊を買ったことは、この際忘れてほしい。積読熟成家の末席を汚すのもおこがましい蔵書量なので、多めに見られたい。

 ただしここには漫画と映像ソフトを含まないものとする。書庫のついた家がほしい。

 

 世の中に怒り続けてくれる人がいないと、世の中は良くならないんだろうなと感じる。

 だけど怒っている人は怖いなと咄嗟に感じてもしまうから、怒り続けることもできなくて申し訳ないなと感じる。

 誰かに怒る役割を押し付けておいて、のうのうと暮らしている自分もいる。

 世の中のままならなさを感じる五月の陽気である。たぶん、仮にモデルケースがいてくれたところで明日からの世の中にそっくりそのまま適用はできないから、自分でどうにか生きていくしかないんだろう。

 そんなことを、書いたものを読み返したり、古い話を読んだりしながら、考えたり考えなかったりしている。

雨の夜の日記:積読をリセットしたほうがいい

 と、ある人に言われたことがあるのを思い出した。
 これだけで「なんてことを」「積読は熟成してこそ意味がある」と、咄嗟にムムム……みたいな気持ちになる人はいるだろうし私もそう思う。ただこれは、私に対して「あなたという人の性質を鑑みるにそのほうが良い気がする」と言われたのであって、そもそも万人に対する話でないのは申し添えておきたい。

 なるほどたしかに、いったん手放しておいたほうが瞬間的に読みたいものだけを読める、鉄を熱いうちに打てる、賞味期限の切れる前に冷蔵庫を綺麗にできるみたいなことかもしれないなと、今日になって思うのである。私は作り置きが苦手である。理由の一つ、四日分の分量を二日で食べてしまうから。一つ、四日食べられる量を作ると味に飽きてしまうから。一つ、アレンジしながら一週間食べるようでは、私が求める『作り置きによって一週間が楽に!』という効果が得られているかどうかが最早かなりビミョーだから。一週間のレシピを考えて買い置きができない。せいぜいが三日である。スーパーの店先で「あ、これ作ってあれ作って食べたーい」と思ったときの情熱をギリ保たせられるのがマジでギリ三日である。これ以上は無理だ。四日目には野菜があるのを無視してピザを取りかねない。本末転倒である。何日分の食費が飛ぶんだ。

 積読の話に戻ろう。

 積読リセットについて、言われた当時は「えーでもー」と、言わないまでも内心では思ったものだったのだが、いまの私をふと顧みるにフム、やってみるかという気がしてくる。なんでもかんでも手放すわけではないのだけれども、いまの私の嗅覚が「当面読まない気がするぞ」と告げている本には、また別のタイミングで再会できるかもしれないわけで、そのほうがいっそロマンチックなのではなかろうか。私はロマンを大事にしている。運命の出会いからの瞬発力に勝るものはないのである。ハマったタイミングで地元にそのバンドが来た、人に勧められたタイミングでそのゲームの新作が出た、情報収集していたタイミングで求人募集が出た、だとか。そう考えると書物と私もマッチングである。マッチングは相性のほかにタイミングが重要である、間の悪さはすべてを塗りつぶすし、傷心の相手に優しくすることでいい感じになるのは理にかなっている、気がする。いやだから積読の話である。

 それにしても近頃なんだか長めの文章を書くための筋肉が衰えつつある気がするので、ブログを定期的に書く機会を持ちたいなと思っている。毎日やるぞと決めるとそれなりにストレスがかかってしまう性質ではあるので、習慣化を目標にするのではなく、気が向いたときに「書いておくか」とPCを立ち上げるハードルを下げておく、くらいにしたい。何も考えずにブラウザを開いてもこれくらいは書けるのである。そろそろ眠る。しとしとと梅雨を感じる夜に、文庫本の冊数を数えている。