ふたたびブログ

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誰かが泣きじゃくってくれたら私の心も軽いのに/『宝石の国』感想

 例に漏れずというやつで市川春子先生『宝石の国』を一万分の無料公開に乗じて一気読みした。最新話(アフタヌーン最新号に掲載の九十六話)も購入して拝読した。

comic-days.com

※サイトだと八十八話までしか読めないが、アプリからだと(おそらく初回使用で沢山貰えたのであろうチケットで)九十五話まで無料で読むことができる。そこまで読んだら九十六話を買わないでいられなかった。

※私は特に宝石の国からの回し者でも月からの回し者でもない。

 

 コミックスが1~2巻まで出ていた頃に、おそらく書店店頭の試し読みで1話だけ読んでいて、いずれ読んでおきたいなと心に留まっていた作品のひとつだったので、読む機会を得られてよかったなと思っている。思って、いる。思って……いるが……。
 「が」、という具合で具合が悪くて予定のない土曜日を棒に振ってしまったほどには言い知れぬ気持ちにさせられたので、なぜだろうということを考えておこう、と試みてみる。

 書きながら考えていることを書くので、結論めいたことは出ないかもしれない。そしてまた私は自分がこれまでに触れた作品との違いによってしか、自分が感じたものを明確にできないため、ほかの作品を引き合いに出している。どれも私が心揺さぶられた作品であり、そのいずれかを持ち上げたり、下に置いたり、そういった意図は一切ない。ただ、私の中で世界を見るときのモノサシになりつつある程度には、いずれも深く感じ入った作品だったということだ。

 感想と日記に許すも許さざるもないかもしれないが、一応、お許し願いたい。

 

 

はじめに

 『宝石の国』がどうやらひどい地獄の様相を呈しているらしいということは前評判で知っていた。私はこれをタイムライン上での受動喫煙と呼んでいる。

 私がフォローしているアカウントの持ち主や、私がなんとなく含まれる気がしているクラスタは、総じて、つらいつらいと言いながら地獄の様相を眺めて血の涙を流すのがすきだ。私のように生身の身体の調子にまで支障を来さない方も、もちろん多くいらっしゃるだろうが。さておき。

 地獄が広がっていると聞いていたので、あらかじめ、あまり、何かに入れ込むことはないように読もうと予防線を張っていたのは事実かもしれない。しかし、それにしても私はあまり特定のキャラクターに入れ込む読み方をしなかった。私にしては珍しいほうである(まったく無いというわけではない)。
 それでいて、おそらくは、私の『宝石の国』に感じた言い知れぬつらさとくるしさと気味の悪さと、しかもそれらをうまく言語化できないゆえの閉塞感は、この「入れ込めなさ」と背景を同じくするものなのではないかしら。と、ふと思ったのだ。

 それというのも「宝石の国を読んでLB6を思い出した」という方や「TRUMPシリーズがすきな人は宝石の国もきらいじゃなさそう」とおっしゃる方をお見かけしたからである。なるほど、腑に落ちるところがあるので私もそれを考えてみたい。

 

妖精と宝石はすこし似ている気がする。そして私は妖精が苦手だ。

 LB6というのはスマートフォンアプリ『Fate/Grand Order』の第二章第六章のことを差す(LostbeltNo.6の略)。

 

www.fate-go.jp

 FGOと言ったら戦闘の5倍くらいの時間をテキスト読破に要するアプリゲームである。とかなんとか言っていたら超難易度の戦闘を挟み込むようになってきて結果的に戦闘時間とテキストを読む時間とがどっこいどっこいになってきた。ちがう、そうじゃない。そうだとして、その難易度を求めているわけじゃない。デメテルを許さない。ともかく。

 詳細な言及は避けたいと思うが、LB6では我々の住む「人間が霊長の頂点に立った」世界とは違って、遥かに古代の妖精(窓から連れ出してくれるティンカーベルのようなものではなく根本的に人間とは別種の生き物)が社会を形成し、世の中を回している前提の世界を旅することとなる。
 ここで恐ろしいのは、妖精たちは人間の模倣で社会めいたものの形成を試みているに過ぎないことであって、そこに目的も、意義も、志もおそらくあまりなく、「愉快げなことをやってみているだけ」に過ぎないところにある。当然、そこにはなんらの労いもほんとうにはもたらされない。どんなに妖精世界のために腐心し、身を粉にした者に対してでも、容易に興味を失くすし躊躇なく当たり前に排除するし、先々どんな結果をもたらすかなんてことは考えられない。それは時に悪意ですらない。悪意ですらないことが恐ろしい。(根本的には社会を形成することに致命的に向かない。)

 宝石たちのありようは、どこかLB6の妖精たちに似てはいないかと、そう言及する人が幾人かいらっしゃったのである。なるほど、私もすとんと腑に落ちるものがあった。
 宝石たちの場合には、一定の仲間意識は存在するようであったし、失くした相棒への感情を持て余している様子もあった。それでいて、いざ冬の仕事を行う者がいなくなったら自分たちでまかなうし、人手が足りなくなったなら――あるいはフォスへ対抗しなければいけなくなったら――シンシャにも友好的になる。逆に、役割でしか互いを認定できないとも言える(これは妖精もそうだったかもしれない、彼らは妖精として生まれた目的のために生きている)。金剛ですらフォスのことを「愛する宝石」の次は「自分にとっての救世主」として見ている。

 とはいえ彼らの根本は、六度の彗星よりも前に存在した「人間」に端を発しているから、他者への友好や愛や嫉妬も事実なのだろうけれど……。
 おそらく生物としての死がないことによって、相互に助け合う必要が本当はあまり、ない。それがああやってコミュニティめいたものを形成しているのが、金剛に備わった愛のベールみたいなもののせいなのかどうか、知れないけれど……。

 「人間」になれる素質を持っていたのがフォスフォフィライトだったとして、それはたまたま彼がその硬度で生まれてきてしまったからなのであって、いや、はたまた硬度に見合わない自己顕示欲の塊だったからだとして、いやいや、その自己顕示欲はどこから育ったんだって、彼らの性格はどこからやってくるものなんだって、エクメア……(おそろしくなってきた)。

 ともかく身体的機能が人間とは異なることによって、思想思考にも人間とは別の在り方がもたらされていて、私にはそれがおそるべきこととして感じられたのである。私は人間で、彼らは人間ではないから、彼らの在りようは、本当のところは何も分からない。

 

吸血種もダンピールも善意から悲劇を生み出すが死に物狂いの生き物だ。

 TRUMPシリーズというのは、舞台『刀剣乱舞』などを手掛ける末満健一氏による舞台オリジナルの作品群である。

trump10th.jp

 不老不死の力を持った吸血種「TRUMP(True of Vampの略)」をめぐり――というか「不老不死」の力をめぐり――吸血種と人間と、その間に生まれたダンピールとが、偏見にまみれながら戦ったり、愛するものを守ろうとしてめちゃくちゃにしたり、めちゃくちゃにされたり、最終的に村が消えたり、死ぬよりもひどい数千年の孤独を彷徨ったりする、とにかく悲劇を懇切丁寧に塗り重ねていくシリーズである。本当に見事なのでぜひ観てほしい。

 思うに、『宝石の国』を見てTRUMPシリーズを彷彿とさせる点というのは、主要人物が良かれと思ってやったことがすべて悲劇のきっかけになっていくということにある、と思う。結果的に彼らは愛したものをとりこぼし、自ら手にかけ、取り返しのつかない闇の中へと突き進んでいく。それはしかも、善意によるものだからかえって始末が悪い。あるいは思春期がそうさせている。悪意に見えるものが悪意なのか、そうでないのかも、実のところよく判らない。

 フォスフォフィライトの三〇〇年の孤独と自己顕示欲が果たして、悪と呼べるものかどうか。結果を見れば、成したことは善ではなかったかもしれない……しれない? 本当だろうか。いま世界の無を祈る存在として、生まれ変わってしまおうとしているフォスは、結果だけ見れば世界にとって善を為そうとしているのではなかろうか。だとしたら(作中世界で善とされるならば)余計に気持ち悪いのだが。

 それでもどうしてかフォスフォフィライトを見て、あるいはほかの宝石たちを見て、エクメアを見て、いまひとつ私は同情的にも感傷的にもなりきれない気がした。ならなくちゃいけないわけもなく、読後は言い知れぬ虚脱感に襲われ、それでもなんだってこんなふうにどこか遠い世界のように思うんだろうと不思議に感じていた。
 そこで先だっての「TRUMPシリーズ」である。
 なるほど、吸血種たちには「死」があり「死に物狂いで生きる生々しさ」があった。

 宝石たちが死に物狂いでないかと言われたら、少なくとも部位を欠損することは嫌なのだろうし、砕かれたくはないのだろうし、不可逆はおそろしい。ああでもこれは月に行って粉になった仲間を見て初めて実感したものだから、月に行かないままならば「いつか元に戻る」を永遠に諦められないので「死」の実感はないのかも。彼らはたぶんあんなにつらいめに遭っていて、戦争が終わらないことを憂いてもいて、戦争には終わってほしいはずなのに、仲間がいなくなっても泣きじゃくることがない。いや泣きじゃくるという表現が必ず必要だとは思わないし、つらいほどに心は麻痺して涙も流れないかもしれないが、どうしてか、彼らは涙を流す器官がないのか習慣がないのか、なんなのか。

 彼らの「つらさ」を私が判じかねている、のかもしれない。
 決して安息の日々ではないだろうけれど、私の価値観で思う「つらさ」と彼らのそれが同一ではないかもしれないという感覚が、薄っすら、常に、作中に存在し続けていたのかもしれない。もしかしたら、だけど。
 いっそ苦しんでくれたなら、フォスが、取り返しのつかなさにめちゃめちゃになって心をその硬度三半の身体のように砕けさせて取り乱してくれたなら、私はもっと読んでいて気が楽になったかもしれなかったのに。一緒に感情をしっちゃかめっちゃかにして、(たとえフォスの判断とその身に起こったことに同情も共感もできなかったとしても)あんまりひどい出来事だなあなんて、臆面もなく嘆き悲しむことができたかもしれないのに。それさえ許さない。
 宝石に「つらい」「くるしい」はどれほど備わっているのか。それは肉体に由来するものなのか情操教育の欠如なのかなんなのか。ボルツにもやもやするダイヤだったり、パパラチアを前にしたルチルだったり、そのほかいろいろ、嫉妬めいた執着めいたものは存在しているのだけれど。ダイヤだってルチルだってフォスや月との一悶着があってようやくそれらを本当に表に出した、という気もするし。やはりそれは人間(の魂)由来の代物だということなのかな。

 ああいやはたまた、それは欠損による記憶の損失と関連しているのかな。ダイヤやルチルはフォスのようには大部分を失っていないから、あるいは硬度の関係で失いにくいから? いくらかの学習された嫉妬や執着を明確に持ち合わせたのかもしれないけれど。フォスはおこちゃまだったということか? しかしそれはあんまり、あんまり。あんまりなことだなあ。

 

最初からずっと麻酔の話をしていた。

 第二話時点で、ぎょっとして思わずスマホにメモしてしまったセリフがある。

ルチル「過酷で役立つ仕事は自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔です」

 いやまったくそうだと思ってしまった。友人知人を鑑みても、我が身を省みても、世の中を思っても。私はあるいは役に立たない仕事ばかりしているから自分の存在にいつまでもいつまでも疑問を抱いている。
 ルチルはまるで、シンシャのこととして言ったみたいだったけれど。
 この漫画はずっとこの麻酔の話をしていたのじゃあないかしらと思うのだ。

 自分の存在に疑問を抱いていたからフォスはどんどん、その過酷で役立つ麻酔にのめり込んでいって何も感じなくなっていったんじゃなかったか。本当のところ、自分の存在のなんたるかなんていう真ん中の問題をほったらかしにして。

 あるいはルチルだってそうだ。過酷で役立つ仕事によって自分に麻酔を打ち続けているように見える。

 はたまた金剛だってそうだろう。宝石たちを愛し守る仕事は自分の本来の役目を放っておくことがどうにか可能になる程度には過酷で役立つものだったはずだ。

 この漫画はずっと麻酔の話をしていた。
 九十六話まで読み終えてそう思って私はくらくらとしてしまった。
 そんなのって、そんなのってない。

 誰もが存在に価値を見出さないで、果たす仕事で在りようを捉まえている。まるでキラキラしてさえいればそれでいい服飾品みたいだ。それが本物か合成品か否かなんて、実のところどうでもいいと思うやつにはどうでもいいのだ。本物だとしたって役に立つ麻酔がなければ、何の価値も見いだせない。

いちばんひどい思いをしたシーン。

 私が作中でもっとも吐き気を催したのは月に行ったフォスが、砂から宝石を元に戻すのに、アドミラビリス族の貝殻が必要だと言われるシーン。「貝殻頂戴って言ったらくれる?」と言われた小さなアドミラビリス族の子が、必死になって(それこそ『必死』になって)殻を脱ごうとするくだりだ。

 フォスは止めに入るのだけれど。

 アドミラビリス族の、きみはきみで、いったいなんなんだ。あなたにとって「おうのめいれい」っていったいどれほどのものなんだ。宝石や月人と違って、肉であるところのあの子たちには死がちゃんとあって、あるはずなのにそれで、どうしてそう、なんで、うう、気味が悪い。魂と骨と肉とはすべてが集まって、ようやく一定のバランスに収まっているってことなのだろうか。どれかが欠けていたら一見、うつくしくて均整の取れた穏やかな存在のように思われても、結局は根本のところに大きく歪みを内包したままになってしまうってことなんだろうか。

 これも人間である私の目線からしか語れないことだから、実際のところ、本当に歪んでいるのが骨なのか肉なのか魂なのかはたまた私なのかは、誰にも断じられないことなのかもしれないけれど。閻魔さまだってなんだって判るものか。人間の思想由来の存在だからして人間の一切に対し客観的でいられるかどうかは、なんて、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど。

 

つまるところ、

 私は普段から人間の営みに興味があり、人間基準で人間ありき、人間起点で物事を捉える人間だという自覚をもって生きているが、それゆえに、『宝石の国』は人間の話ではなかったから(あるいは、人間の話なのだけれど今までずっと真ん中にいたのが人間ではなかったから)(しかも一見すると人間とよく似た姿をしているから)、どうにも気味悪さの本質をとらえにくくて、言葉にしがたかったのかもしれない。

 これを生み出したのも人間なのだと思うとぎょっとして背中がぞくぞくする。

 とうとう人間を越えてきてしまいそうなフォスはいったいどうなってしまうのだろう。どうするつもりなのだろう。ここまでのことをやっておいて、このうえ、いったい何をどう語るつもりなのだろうこの話は。たのしみにしたいと思う。胃がどうにかなりそうだなと思う。今夜は眠る。一万年が途方もなくおそろしい。