ふたたびブログ

いろんなものを書きます

手紙のなまえの喫茶店

 お気に入りの喫茶店が閉店した。

 今までのわずかな人生で訪れた「喫茶店」や「カフェ」と呼ばれる店舗の中で、もっともすきだと思える場所だと思う。2年ほど足を運んでいなかったが、本当にすきなお店だった。

 地元の、むかし勤めていた職場のすぐそばで、町の中心部にあるのにしては奥まった路地にひっそりと息づく、看板らしい看板ものない(あるのだが、遠目には分からない)ひかえめな店構えだった。私は2020年の3月に当時の勤め先を退職し、地元から出て、転出したと同時に今度は、感染症を取り巻く情勢下で県境を越えての往来が難しくなってしまった。世の中が落ち着いた折にはまた立ち寄るつもりでいただけに、とつぜんの閉店の報がたいそうさびしくて仕方がない。

 私の地元は雪深く、なにより非常に寒い町だった。雪深いといっても、もっと雪深い町からは怒られてしまう程度の雪深さだが、初雪を素直に喜べる地域の方が目を見開いて飛び上がる程度の積雪量はある。父親が言うことには、首都圏から仕事やなんやで北へやってきた人はみな、「青森・秋田・岩手」の「寒さ・雪・風」に驚くのだそうだ。三県のそれぞれがどれかに当て嵌まるはずだが、どう聞いたのだったか、話半分だったので忘れてしまった。

 そんな雪深くて寒くて、古めの暖房機器に一生懸命稼働してもらいながら事務仕事をする町では、いつも空にどんよりと灰色の雲が蓋をしていて、時折息が詰まりそうになった。というか、詰まった。詰まっていた。紺色の夜空から真っ白な雪の結晶が落ちてくるなんてのは幻想で、現実には当たり前に、遠近感の狂いそうな灰色の濃淡が頭上を覆ったところから、きゅうに白く目の前へあらわれ出でてたちまち道を見えなくしてしまうものが雪だ。空の灰色と雪の白と、道行く人間のだいたいブラックかグレーかネイビーのダウンコート、それも見えればまだいいほうで、ほんとうにひどい雪の日には景色がぜんぶ真っ白になる。そういう町だった。

 愛着と郷愁とが相まって私は地元を好いているけれど、雪の田舎の閉塞感に気が詰まる場面は少なからずあり、そんなとき、ほうと心をほどける場所が件の店なのだった。

 朝から揉めに揉めていらだった日の昼休みに、丸パンで作られたサンドイッチとサラダ、時々変わるスープ、ハーブティーのセットを頼む。サンドイッチはいつもツナとハムの2つセットだ。初めて食べた時には、このツナの美味しさにびっくりとした。スープはいつも胃にやさしい味わいがする。それから、人参のサラダがいい。どうやって作っているのだろう、人参に人参がかかっているようにしか見えないのに驚くほど臭みがなく、だけど素材をそのままに、とても美味しくて、ああ書いているうちに恋しくなってきた。生成り色のカウンターの壁に唯一ぱっきりと目の覚めるような人参のオレンジ色が記憶にまぶしい。

 食後には決まっていつもセットの、カモミール……だった気がする……ちがうかも……のハーブティーが出てきて、これを飲みながらぼんやり午後のことを考える。職場ではただ苦いだけのインスタントコーヒーを流し込んでいる私の胃と気持ちに、シンプルな耐熱ガラスのカップからじわりと温かさが通って、店を出るときには少し憑き物の落ちたような気持ちになるのだった。

 それから、二進も三進もいかない案件を翌日の自分へ委ね、立ち寄った帰り道にも。その日の気分でコーヒーと、なにか甘いものを頼むことが多かった。ケーキは日替わりなのか、訪れるたびに用意されている品が違う。どらやきを頼んだ日もあったと思う。コーヒーもオリジナルのブレンドの名前がちょっとかわいくって、ミルクを入れてもよかったし、いれなくてもよかった。ミルクティーを頼む日もあった、ミルクティーには少しだけお酒(ブランデーかラム酒、たぶん)を入れてくれる。

 手帳を開いて、週末に飛び乗る新幹線の予定なんて確かめつつ、ふと外を見る。平日の夜はランチタイムよりもひと気が少なかったので、たぶん人気の、南か東向きに大きく開いた窓辺の席に座ることが多かった。県内産のミルクの香りが鼻から抜けるのを感じながら、通りを眺める。通りといっても大きな道ではないから人や車はあまり通らず、斜め向かいの区画の緑地(むかしの病院かなにかの跡地だったはずだ)に季節の木々がざわざわ揺らめいているのを見て、今日は風が強いなだとか、はたまた、ああ雪が降ってきてしまったとか、そんなことを思いながら過ごした。

 件の喫茶店は職場のほんとうにすぐそばにあった。周辺の定食屋が昼休みには同僚や上司でにぎわうのに対して、ひっそりした店構えのためか、格安大ボリュームのランチセットが出てこないためか、しめやかにBGMの流れる店内で、社内の噂話なんか大声で話すのには向かないからなのか。昼休みや仕事帰りの一度も、この店で同僚には出くわさなかった。あの頃は避けていたけれど、いま思えばひょっとして、出くわしたところでお互いに知らぬふりをして過ごしたかもしれない。

 自分のための時間を、大切に過ごせるように。

 そういうつもりで作られた空間だったのだと思う。小さなテーブル席は2、3人がやっとの広さで、グループ客もどことなく静かに言葉を交わしている。柔らかさとやさしさ、良い意味での不干渉、そっと声を掛けられるけれど必要以上に踏み込まれない。不思議と心地のいい距離と空間が店の中に、とても丁寧に編まれていた。

 そこがすきだった。

 先月をもちまして閉店しました、と翌月になって言われたとき、一瞬まっしろになった。閉店の報はSNSで(正確には別の雑貨屋さんの投稿によって知り、あわててお店の投稿を見に行って)知った。もしかしたら、お店を訪れていた人には少しずつ知らされていたのかもしれない。私は当時なら、顔を覚えられていたかなと思うけど、わざわざ名前を名乗ったり、これこれこういうものですと話をしたり、必要以上にお店の方と言葉を交わす場面はなかったので、閉店の報が私に届くことはもちろんなかった。地元の友人にすら、私がその店をすきだとは教えていなかった。教えれば一緒に行く場面があっただろうし、その上で私は、私がひとりで"私と"過ごす場所として、その店を気に入っていたからだった。教えていれば友人から「あそこ閉めちゃうらしいよ」なんて話が入ったかもしれない。入っていたところで、駆け付けて最後にもう一度ハーブティーを飲むことができたかどうか分からないけれど。

 お店は閉まってしまったけれど、オンラインストアハーブティーなどの販売は続けられるのだという。大慌てで、色んなものが入ったセットを注文した。2セット購入してから、食品には賞味期限があるということ、自分が単身世帯だということに気付いたので、お世話になっている友人へ今日にでもおすそ分けするつもりだ。

 届いた荷物には、ハーブティーとコーヒーのドリップパック、自家製グラノーラと一緒に手紙が入っていた。文面は店のホームページにも記載のあった、閉店に至る旨と、今後のご予定のことで、少し透ける素材の紙にやわらかなフォントで印字してあった。紙といい文字といい文面といい、どれもがお店の、窓からひかえめに光が指して、だけど少しだけ外の世界からは切り離され、ほうと息をつけるあの空間に似通っていて、胸のあたりがぎゅうとなった。

 それから、窓辺の席を描いたポストカードが一枚同封されていた。もうこの座席はあの町に帰ってもどこにもないんだなと思って、さびしくて泣いた。内装をとりはらった店の様子がSNSに投稿されていて、相まって泣いた。さびしくて、すきな店だった。